3月1日は「枚方市平和の日」です。市民一人ひとりが平和の大切さと平和への貢献について考えていくことが大切です。

2021/02/24

枚方市議会議員の奥野みかです。

3月1日は「枚方市平和の日」です。
2021(令和3)年2月24日(水)から3月12日(金)まで、市役所別館1階ロビーでは、「禁野火薬庫の爆発」ミニパネル展が開催されています。
1939(昭和14)年3月1日、当時の陸軍の禁野火薬庫が大爆発を起こし、約700人もの方が死傷しました。 爆発当時の様子などを記録した写真パネルを展示されています。
私の父は1939年5月の生まれなので、おなかの大きな祖母が父の姉を連れて、中宮から交野の郡津あたりまで逃げていったとのことです。当時、大山崎の小学校に勤務していた祖父は、枚方あたりの空が真っ赤に染まっていたのを見たと言っていました。


「平和の日」記念事業について

新型コロナウイルス感染症の拡大に伴い、大阪府に緊急事態宣言が発令されています。そのなかで、枚方は公共施設の使用制限等を行っているため、今年も残念ながら多くのイベントが中止・延期となっています。3月1日(月)に予定されていた「ひらかた平和フォーラム」、企画展「杉原千畝とユダヤ人の逃亡した足跡~寿福滋 写真展~」等が残念ながら中止となっています。

FMひらかた特別番組「平和っていいな」

FMひらかた(77.9MHz)特別番組「平和っていいな」では、昨年は中止でしたが、今年は、3月1日(月)午後7時~8時(再放送は3月2日(火)午後1時~2時、もしくは3月6日(土)午前7時~8時)に、香里製造所での学徒動員と大阪大空襲の体験を久保三也子さん(91歳)が語ってくださいます。市民が証言する枚方でのさまざまな戦争体験の番組です。

<枚方市平和の日記念事業> 枚方市平和の燈火(あかり)が開催されます!

市内等の大学生を構成員とする実行委員会が企画・運営する「枚方市平和の燈火(あかり)」は、3月6日(土)午後5時30分~7時30分(※雨天の場合は7日(日)に順延)に実施されます。当日は入場制限が行われ、キャンドルカップの点灯のみとのことです。「平和」と「コロナの収束」を願い、約5,000個のメッセージキャンドルにあかりを灯します。また、今年で10年を迎える東日本大震災で犠牲になられた方々への哀悼と復興のメッセージを枚方から届けます。

平和の燈火(あかり)実行委員が伝える平和のメッセージ

私たち平和の燈火(あかり)実行委員会は、平和について改めて考え、そして、平和を願うさまざまな活動を毎年行っています。
中でも、私たち大学生がより若い世代の人々と平和について考えていくことで、平和のバトンを繋げていけると信じて、子どもたちに戦争の悲惨さや平和の尊さを伝える取り組みを行っています。
現在、新型コロナウイルス感染症の影響で、好きなことや、やりたいことが出来ない日々が続いています。
そんな今だからこそ、改めて平和の大切さや、ありがたさを感じることが増えました。
今年は、新型コロナウイルス感染拡大防止対策のため、キャンドルの点灯のみとなってしまいましたが、一人ひとりが平和への思いを描いたメッセージキャンドルを会場に並べて灯すことで、世代を超えて平和の大切さについて考え共有し、発信していきたいと思います。
「枚方市平和の日」を通じて、平和について考えるきっかけになれば幸いです。

枚方市平和の燈火(あかり)実行委員会一同

 

 

(※クリックすると広報ひらかた2月号の「枚方市平和の日」特集のPDFが開きます。)

 


 

戦前、枚方市には旧陸軍の禁野火薬庫、枚方製造所、香里製造所の3つの工廠がありました。

その一つ、旧陸軍禁野火薬庫が大爆発を起こしたのは、1939(昭和14)年3月1日。天地を揺るがす爆発が約4時間、29回にわたって繰り返され、死傷者約700人、全半壊した家屋約821戸に及ぶ大惨事となりました。

枚方市は、大爆発が発生した日から50年後、そして、1954(昭和29)年3月1日に第五福竜丸がビキニ環礁でアメリカ軍が行った水爆実験に遭遇し、被爆した日から35年後の1989(平成元)年に、2つの大惨事を風化させず、市民一人ひとりが平和の大切さと平和への貢献について考える日として3月1日を「枚方市平和の日」に制定しました。

また、戦前には津田駅から禁野火薬庫と枚方製造所まで、軍用鉄道(現国道307号)が敷かれ、毎日大量の火薬や砲弾などが戦地に向けて積み出されていました。1991(平成3)年に、この軍用鉄道敷の一部であった中宮本町から中宮西之町までの約600メートルを「中宮平和ロード」として整備しました。ここでは、昔の鉄道敷をしのばせるSL形のトンネルや線路沿いに立てられていた軍用電柱等を保存・設置しています。

禁野火薬庫・枚方製造所ともに火薬を収蔵した倉庫は、爆発しても被害が拡大しないように、倉庫の屋根の高さまで達する堅牢な土塁で1棟ずつ囲まれていました。1945(昭和20)年の終戦により軍施設は閉鎖され、以後、周辺開発に伴い土塁や建物・施設等は取り除かれましたが、高陵小学校の南側には禁野火薬庫の土塁が、また、東側の校門付近や中宮第三団地内(写真)には枚方製造所の土塁が残り、戦争の生き証人となっています。

戦後、旧香里製造所は香里団地に生まれかわりましたが、計画外にあった煙突は撤去を免れ、水道局妙見山配水池の敷地内にそのまま残りました。この煙突は、宇治火薬製造所から運ばれてきた湿った火薬をスチーム熱で乾燥させるために建てられたものです。戦争につながる建造物を後世に残し平和のモニュメントにしようと、1984(昭和59)年、香里製造所の煙突を「平和を願う妙見山の煙突」として永久保存することにしました。

なお、禁野火薬庫の爆発から80年目という節目にあたる2019(令和元)年、伝えなければならない記憶として、禁野火薬庫大爆発に遭遇した枚方町(当時)在住小野清彦氏の手記と、同氏が収集した爆発関係新聞記事及び市教委文化財課市史資料室が補足して収集した新聞記事を1冊にまとめた資料集『禁野火薬庫爆発遭難手記』が刊行されました。

 


 

平和の鐘カリヨン(愛称「ヒラリヨン」)は、21世紀の平和のシンボルとして、1997(平成9)年、市制50周年を記念して岡東中央公園に建設されました。カリヨンとは、調律された鐘を複数組み合わせてメロディーを演奏する組み鐘のことで、市民公募により決定された愛称「ヒラリヨン」は、枚方とカリヨンの合成語。ヒラリヨンからは1日10回定時にメロディーが流れています。

平和の鐘カリヨン(ヒラリヨン)

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