経歴

  • 1964年 昭和39年

    11月10日生まれ

    枚方市内の小学校教師であった父母(奥野稔、奥野美代子)の長女(3人姉妹)として、中宮西之町で生まれ育つ。

    幼い頃は、祖父(清)、祖母(登美恵)、おじ(章)、父、母、妹(祐美、りこ)の3世帯8人家族。両親が働いていたため、妹が生まれてから以降は、村野の親戚宅で日中を過ごす。

  • 1969年 昭和44年

    勝山愛和香里ケ丘幼稚園 入園

    通園バスで香里ケ丘にある幼稚園へ。

    「生駒の山もゆめ覚めて きらきら光さす頃は 小鳥も歌を歌います 敬愛、愛和、聖徳の あゝうるわしい幼稚園♪」…、あずき色の制服は今も続いているよう。

  • 1971年 昭和46年

    枚方市立明倫小学校 入学

    1年生は7クラス。体が小さくて、一番前で整列。2年生から新設された中宮小学校へ。児童数が急増していた時代。1977年、枚方市立中宮小学校卒業。


    枚方市駅前再開発事業で建設されたサンプラザ2号館ビルに、1975年、「ひらかた丸物」が開店。そこから続く緑道には花時計がありました。

  • 1977年 昭和52年

    枚方市立中宮中学校 入学

    中学では水泳部所属。百済王神社で合唱大会の歌の練習をしたことも懐かしい思い出。

  • 1980年 昭和55年

    大阪府立長尾高等学校 入学(8期生)

    長尾高等学校は地元集中校だけど、中宮からは交通の便が悪く、雨の日も合羽を着て、自転車で通学。2年下の妹の地元集中校は枚方高等学校。制度の矛盾も実感。高校も水泳部に所属。高校2年の文化祭では、淀川のいかだ下りを実施。


    高校3年の夏、当時、桜丘北小学校の院内学級を担任していた母が卵巣がんのため京都大学附属病院に入院。2学期から通い始めた駿台京都校も含め、京都との往復が日常に。共通一次試験(現在の大学入試センター試験)は京都大学で受験。2日目の京都は雪。2回目の手術後で個室にいた母の付き添いを兼ねて病院に泊った私は10分で試験会場に到着。朝、妹が手作りのお弁当を届けてくれたのは忘れられない思い出。

  • 1983年 昭和58年

    奈良女子大学文学部 入学

    大学では教育学科で心理学を専攻。発達心理学が専門の村井潤一教授。


    大学2年時、2年間の闘病生活を経て母逝去(享年45歳)。一番下の妹は中学3年(15歳)。父子での苦労を祖母が助けてくれた。その後、すぐ下の妹は看護師に、一番下の妹は幼稚園の先生に。

  • 1988年 昭和63年

    枚方市役所 入職

    男女雇用機会均等法は施行されたものの、まだまだ雇用・配置等における女性の処遇には課題があるなか、公務職場においては、少なくともスタートラインに性差はない、そんな先輩職員の助言もあり、市役所を選択。


    自治活動課では、コミュニティ組織の再構築をめざし、地域活動の支援や都市間交流を担当。
    同和対策室では、部落差別をはじめとするあらゆる差別を許さず、多様な生きざまを尊重し、人として生きる権利を守るための啓発事業に取り組む。
    障害福祉室では、知的障がい者のケースワーカーとして相談支援に従事。まだ「措置」の時代。
    保健センターでは、保健事業等に取り組む多くの専門職の中で、主に庶務・財務事務を担当。
    高齢社会室では、認知症になっても住み慣れたまちで暮らしていけるよう認知症サポーターキャラバンの取り組みや介護予防事業の構築に取り組む。
    健康総務課では、健康・福祉・医療をつなぐ取り組みの必要性を実感。
    監査委員事務局では、市の事務事業や財務の監査を通じて、持続可能な行財政運営や内部統制・コンプライアンスの重要性を再認識。


    子ども青少年課では、ひとり親家庭等自立促進計画の策定にあたり、点から面へ、包括的な支援体制の実現に向けて、ワンストップの総合相談窓口の構築をめざす。子どもの貧困が社会問題として認識されるなか、子どもたちの居場所づくり構築にむけたアプローチも。ひきこもり等子ども・若者相談支援センターでは、相談につながった若者の次のステップとしての居場所、活躍の場を模索。必要な人に必要な施策を届けるための地域での掘り起こし、支援者のネットワークのさらなる強化が大切だと感じた。
    社会教育課では、現代的課題を踏まえ、人が地域で生きていくために必要な基礎的な知識や技術を学ぶ機会を提供する社会教育活動の推進。差別や貧困により奪われた文字を取り戻す識字の取り組みから、今は外国にルーツを持つ市民の学びの場にもなっている日本語・多文化共生教室「よみかき」の運営。次代を担う子どもたちの豊かな放課後環境の整備に向けての取り組みを行ってきた。
    仕事はとてもやりがいがあり、「できない理由を考えるのなら、できる方法を考えよう」、目の前の課題に対して、そんな意識で取り組んできた。

  • 子育て期

    3人の子どもを育てる

    ワーク・ライフ・バランス…、なかなか難しい。けれども、まわりの人や制度・施策に支えられて、仕事と子育てを両立。子どもたちは、順に、枚方保育所、枚方市立枚方第二小学校、枚方市立枚方中学校へ。



    1994年 平成6年 長男(田川一)出産
    結婚して1年余りは宇治で夫(田川彰)の家族と同居。姓は別姓を選択。「病院で最期を迎えさせたくない」という義父(田川熊雄)の強い希望もあり、がんで療養していた義母(田川文子)を自宅で看取る(享年72歳)。長男出産後の育児休業中だったので少しはお役に立てたと思うけれども、今なら介護保険制度を活用できたかな。

    子育てしながら働き続けられる保育環境を求め、1995年、復職を機に枚方に戻る。仕事と子育ての両立には、職住近接も一つのキー。

    1997年 平成9年 長女(田川文)出産

    2歳の時、まぶたに目やにが付着しているのかな、と思っていたら、なんとマダニの幼虫の咬合。小児科ではわからず、市立枚方市民病院の皮膚科で寄生虫であることを診断され、即入院、全身麻酔による緊急摘出手術に。子育て期、予期せぬ出来事がいろいろ起こります…。

    1999年 平成11年 次男(田川了)出産
    2人から3人へ。子どもたちにも手伝ってもらって子育てに奮闘。

    小・中学校時代
    3月31日まで保育所で、入学式を待たずに4月1日から留守家庭児童会室に通う子どもたち。「小1の壁」は切実な問題。
    当時、留守家庭児童会室は小学4年まで。特に長期休業時、安全に過ごせるか…。子どもが5年生になるのがとても不安でした。

    小学校時代、息子たちは地域の少年野球チーム「スターエース」、娘はソフトバレーボール「ミラクルパワーズ」に所属。

    その後
    子どもたちのそれぞれの選択を見守る時期

    90歳を過ぎてひとり暮らしが困難になった義父、枚方市内の施設に入所。

  • 2018年 平成30年

    枚方市役所 退職

    枚方市役所での勤務は30年と5か月。行政職員から、立場を変えて市政に働きかけていきたい。声になっていないSOSも含め、現場にある声をひろい、つなぎ、形にしていきたい。多様な一人ひとりとつながり、その声の「いま」を受け止めたい。そんな思いで、次のステージへ向かう決心をして退職。

  • 2019年 令和元年

    枚方市議会議員に初当選

    多様性を認め合い、困ったときに寄り添い、お互いさまに支え合える社会の実現へ。すべての人々が、明日につながる「今」を輝いて生きていけるまち、安心して暮らせるまち枚方を。たくさんの皆さまから託された想いや願いを受け止め、対話を大切にして、課題解決に向けた一歩前進をめざし続けていきます。

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