3月1日は「枚方市平和の日」です。市民一人ひとりが平和の大切さと平和への貢献について考えていくことが大切です。
3月1日は「枚方市平和の日」です。
令和2(2020)年2月25日から3月13日まで、市役所別館1階ロビーでは、「禁野火薬庫の爆発」ミニパネル展が開催されています。
新型コロナウイルス感染症の拡大に伴い、多くのイベントが中止・延期となるなか、3月1日に予定されていた「ひらかた平和フォーラム」、市民が証言する禁野火薬庫爆発・FMひらかた特別番組「平和っていいな」、3月7日の「枚方市平和の燈火」等が残念ながら中止となっています。
昭和初期の郷土史家・教育者・画家であった故・片山長三さんが戦中・戦後に描いた絵日記や水彩画・油彩画等を展示した「片山長三展(2月28日~3月11日)」は市民ギャラリーで実施されていますので、ミニパネル展とともに皆さんもどうぞ見に行っていただければと思います。
市民が証言する禁野火薬庫爆発・特別番組「平和っていいな」については、別の方法での実施が検討されているとのことなので、是非、聞かせていただく機会が設けられることを願っています。
(※クリックすると広報ひらかた2月号の「枚方市平和の日」特集のPDFが開きます。)
戦前、枚方市には旧陸軍の禁野火薬庫、枚方製造所、香里製造所の3つの工廠がありました。
その一つ、旧陸軍禁野火薬庫が大爆発を起こしたのは、1939(昭和14)年3月1日。天地を揺るがす爆発が約4時間、29回にわたって繰り返され、死傷者約700人、全半壊した家屋約821戸に及ぶ大惨事となりました。
枚方市は、大爆発が発生した日から50年後、そして、1954(昭和29)年3月1日に第五福竜丸がビキニ環礁でアメリカ軍が行った水爆実験に遭遇し、被爆した日から35年後の1989(平成元)年に、2つの大惨事を風化させず、市民一人ひとりが平和の大切さと平和への貢献について考える日として3月1日を「枚方市平和の日」に制定しました。
また、戦前には津田駅から禁野火薬庫と枚方製造所まで、軍用鉄道(現国道307号)が敷かれ、毎日大量の火薬や砲弾などが戦地に向けて積み出されていました。1991(平成3)年に、この軍用鉄道敷の一部であった中宮本町から中宮西之町までの約600メートルを「中宮平和ロード」として整備しました。ここでは、昔の鉄道敷をしのばせるSL形のトンネルや線路沿いに立てられていた軍用電柱等を保存・設置しています。
禁野火薬庫・枚方製造所ともに火薬を収蔵した倉庫は、爆発しても被害が拡大しないように、倉庫の屋根の高さまで達する堅牢な土塁で1棟ずつ囲まれていました。1945(昭和20)年の終戦により軍施設は閉鎖され、以後、周辺開発に伴い土塁や建物・施設等は取り除かれましたが、高陵小学校の南側には禁野火薬庫の土塁が、また、東側の校門付近や中宮第三団地内(写真)には枚方製造所の土塁が残り、戦争の生き証人となっています。
戦後、旧香里製造所は香里団地に生まれかわりましたが、計画外にあった煙突は撤去を免れ、水道局妙見山配水池の敷地内にそのまま残りました。この煙突は、宇治火薬製造所から運ばれてきた湿った火薬をスチーム熱で乾燥させるために建てられたものです。戦争につながる建造物を後世に残し平和のモニュメントにしようと、1984(昭和59)年、香里製造所の煙突を「平和を願う妙見山の煙突」として永久保存することにしました。
なお、禁野火薬庫の爆発から80年目という節目にあたる2019(令和元)年、伝えなければならない記憶として、禁野火薬庫大爆発に遭遇した枚方町(当時)在住小野清彦氏の手記と、同氏が収集した爆発関係新聞記事及び市教委文化財課市史資料室が補足して収集した新聞記事を1冊にまとめた資料集『禁野火薬庫爆発遭難手記』が刊行されました。
平和の鐘カリヨン(愛称「ヒラリヨン」)は、21世紀の平和のシンボルとして、1997(平成9)年、市制50周年を記念して岡東中央公園に建設されました。カリヨンとは、調律された鐘を複数組み合わせてメロディーを演奏する組み鐘のことで、市民公募により決定された愛称「ヒラリヨン」は、枚方とカリヨンの合成語。ヒラリヨンからは1日10回定時にメロディーが流れています。