ともに生き合えるよう、相談者に寄り添い、グラデーション(段階的な変化)に応じた多様な支援を。9月18日、「支援について」をテーマに「みか’s cafe」を開催しました。

2023/09/18

枚方市議会議員の奥野みかです。

9月18日、5回目の「みか’s cafe」を開催しました。一緒にPTA役員を担ったママも新たに加わっていただき、もっとよい枚方をつくるための対話が盛り上がりました。

みか’s cafeでは、テーマを決めてゆるやかに対話をする中で、そうそう、そうだったのか等、「インスパイア」=気付きや触発につながればいいなと、そして、それぞれが持ち帰って、お一人おひとりの活動の中で生かしていただくことができればいいなと思っています。そして、対話の中でいただいた皆さんの声を私自身の学びにつなげていきたいと思っています。

今回も集まってくださった皆さん、ありがとうございました。

 

 

今回のテーマは「支援について」でした。

「相談」「支援」と2つの言葉が対で使われることが多く見られるように、「相談」を受けると、次は「支援」のフェーズ(段階・局面)に入る。そんなふうに思われているかもしれないけれども、「相談」にせよ、「支援」にせよ、人の力になる、あるいは力になってもらうということは、そんなに単純なものではなくて、多様で、受ける側のグラデーション(段階的な変化)に応じた方法が必要である。改めて、そんなふうに感じています。

冒頭、「支援」について、参加者がそれぞれのことばで言い換えてみました。

「手助け」「支える」「傾聴」「側面的(主体はあくまで本人)」「援助する」「伴走する」「寄り添う」「共生(共に生きる・共に学ぶ)」「(そのまま)受け止める」「寛容」「助け合い」「手を差しのべる」「支え合う」「応援」「励ます」「生き合う」等々…。

よりよく生きるために、一緒に深く考える「相談」という営みは、さまざまな困りごとを抱えた相談者自身がよりよい理解や解決策を見つけ出すためのプロセスで、そこから導き出されたさまざまな「支援」が相談者につながればいいと思っています。多様なグラデーションに応じて。行政は、すぐに「相談支援」といい、相談窓口を作って、それで終わりという感じも否めませんが、支援は何のために行うものかということを、幅広い視点から考える必要もあると思います。

そういった「相談」の掘り起こし、「つなぎ」、「支援」のどれ一つをとっても、行政だけで完結できるものではありませんので、地域の居場所、地域における包括的なつながりの拠点との連携等を通じて、「相談」や「支援」のコーディネートやモニタリングの仕組みづくりといったことこそが行政に求められているのではないでしょうか。

また、コロナ禍のもと、スピード感を重視するあまり、十分な検討・検証もできていないままで構築される給付型「支援」が激増しましたが、根本的な解決につながっているのかは疑問です。何が大切で、何をなすべき(何はすべきでない)か等、行政としての「支援」の原則を踏まえ、「支援」施策の所得制限をどう考えるか等々も含め、皆さんから預かった大切な税金を行政がどのように使うか、適切な執行であるのか等については、議員として、しっかりと監視していかなければいけないと再認識しています。

今回の対話では、家族の中での支援、個々人のつながりの中での支援、地域での支援、職域での支援等々のプライベートでの支援のあり方、それと、パブリック(公的)での支援のあり方等、支援する側からの支援のあり方について、いろんな意見を交換でき、たくさんの学びもありました。対話の中での問いにもありましたが、何のために行っている支援か、なぜ、この支援を行っているのか等々、根本的なところを見失わないようにしなければいけないということを改めて感じています。

「相談」、そして、「支援」についても、家族(共に生活する者)の支え合いを抜きに考えることはできないのではないでしょうか。次回の「みか’s cafe」は、「家族について」をテーマに話し合うことができればと思っています。 日時は、10月22日(日)9時30分~を予定しています。「みか’s cafe」、引き続き、よろしくお願いいたします(⁠◠⁠‿⁠・⁠)⁠—⁠☆

 

 

 


(※以下のような「対話」を重ねました。)

【支援のイメージについて】

・一言で支援といっても多様なイメージがある。「支援」という言葉をやさしい言葉に置き換えると?→「手助け」「支える」「傾聴」「側面的」「伴走する」「寄り添う」「共生(共に生きる・共に学ぶ)」「手を差しのべる」「支えあう」「応援」「励ます」「対等」等々。
・行政側の感覚では、支援→「介入」、支援→「代行」、になりがちである。「介入」は権限がないと不可能。緊急の場合は「代行」やむなし、か。
・地域としては「そのまま受け止める」からスタート。「相談」と「支援」はセットで語られている。
・「支援」という言葉には一方的な響きもある。ボランティアする人とされる人はお互いに対等。ボランティアをすることによって学びがある。お互いに謙虚な気持ちがボランティアには必要。
・支援は質の違いを持つ。プライベートとパブリックの支援の違い。支援は多様で、グラデーション。 受ける側のニーズに合わせた支援の方法が必要。
・たくさん人が集まると、皆さんのさまざまな思いがある。最小公倍数でやるのか、最大公約数であるのか。組織の中にいるということは思い通りにならないことも多い。そもそも何のためにやってるのか。

【何のために支援を行うのか

・地域で犯罪者が増えないよう、地域の子どもたちが犯罪に巻き込まれないように、という目的もある。学校と連携して対応。
・地域としての支援、見守り。こういうところがある、居場所がある、ということが支えになる。
・支援者のモチベーションの向上。支援の場所は、支援する側のスタッフ(高齢男性等)の居場所にもなる。
・子どもへの支援について。子どもは親以外に話せる人が必要。
・地域での支援、違う形の継続方法。時代に合わせた方法。
・お金がある時だけ福祉がよくなるというのであれば、支援が、「福祉」ではなく「施し」ではと感じることもある。
・さまざまなな特性のある人たちを受け入れる世界になるには?⇒そのまま(ありのまま)受け入れること。
・「情けは人のためならず」について、世代による解釈の違い。
・行政がざまざまな社会的課題をとらえて、社会的なシステムの整備をう唱えたとたん、対象者を線引きし、特別な存在になってしまい、寛容さ、包摂性が難しくなるのではないか。
・情に訴えるしかない?社会の中の支援のあり方について。
・自己責任は魔法のことば。自己責任を自分のものにする土壌が日本にはある。「自業自得」は言葉を変えたら自己責任。
・社会意識の調査。困った人を政府は助けるべきだということについて、日本はすごい低い。弱肉強食のアメリカでも日本よりは高い。ヨーロッパはさらに高い。宗教的なベースもあると思うが、困った人を助けるべきだという同意は、日本はすごく低い。学校で、困っている人を助けるということを学んでいるのか。
・競争社会で相手に対する同情、思いやりは育たないと思う。
・キリスト教はすべて受け入れる。入口はフラット。仏教は、努力して登った先での参拝。石門の「がんばりましょう」「がんばったら報われる」という思想が日本人のDNAか?
・子どもの貧困は大人の貧困。大人が生きやすい社会を。
・グラデーションと多様性。支援はエンパワメント。力を奪う支援もあるかもしれない。
・所得制限をして、この人を排除するというのもある。
・複雑な問題を考え続けていくことが必要。短絡的な思考の人が増えている。

【支援を行う(支援者になる)にあたってのハードル?リスク?】

・入ってしまったら居場所になるのはわかっているが、入るまでのハードルが高い。
・「なんでしないといけないの?」と思うこともあるが、子どもたちからもパワーをもらえる。楽しんでる自分もいる。
・どうやって手伝えばいいのか、活動から抜けるときはどうすればいいか等々、したい気持ちはあるけど入口がわからない。引き際を考えてしまう。
・ボランティアの興味を持つ人は多いが、どのように参加したらよいか。
・支援の組織、後継者養成という意識は、既存のものを継続するのが前提であり、傲慢かもしれない。根幹の理念は引き継いでほしいが、手段は時代とともに変化するものもある。
・組織に入るのではなく、自分がやりたいことを手伝うことができれば…。
・自治会活動について、4~5名の小さい単位で、自分たちで考えてやっていただく。→親睦
・限定的な範囲での少しのお手伝い、役割分担、が必要ではないか。

【支援に係るさまざまな課題】

・心理的なハードルはひきこもりにも。「ちゃんとやらないと!」という思いが強い。世の中の「非寛容さ」が影響しているのではないか。何もしないのがノーリスクなので、一歩が踏み出せない。
・障がい児の親(保護者)は、家から学校に行くまで、帰ってきた後、ずっと一緒にいて、この子は、どういうふうに一日を過ごしてきたのかな、いまどういうふうに思ってるのかなということをみる。楽しかったのか、しんどかったのか。それを、今する人がいない。誰がわかってあげているのか。そのような状況になっている。
・進化した障がい児支援施策(事業)が、親(家族)が子どもと接する時間を短くしているのではないかと懸念される。過剰な外的支援が、親(家族)の義務と責任を忘れさせ、権利のみを主張する風潮を蔓延させているのではないか。外的支援の囲い込みにより、様々な人と接する機会を奪われている。障がい児の親(家族)は子どもと社会をつなぐ役割を担う(担える)と考える。
・障がい児の親(保護者)も仕事をせざるを得ない。しかし、正規で仕事をしている人たちがどれだけいるのか。子どものことも思っていても、社会的な悪化というか、劣化ということがそのまま、子どもたちの体とか心とか、親のそういうことを受け止めてしまうのではないか。
・“障がい”の定義づけが増加し、解釈が多様化している。知的障がい(発達障がい)、精神障がい等、定義がおおざっぱ。
・障がい者という言葉を使うと、この人のいることが社会にとって障がいであると受け止められやすい。障がいとは、この子が生きていくために超えていかなくてはいけないハードル。それをたくさん持って生れてきたわけだから、自分たちができないことがたくさんある。そういうことがわかるよう、外国では、ハンディキャップという。
・知的障がい者、精神障がい者が、地域の中で生きることを前面に打ち出すことの難しさがある。怖がられる?正しい知識や情報があればと思う。世間は目に見える(理解できる)身体の障がいには優しいが、目に見えない(理解できない)知的障がい、精神障がいには厳しい。
・何から何まで全部、しつけまで、保育所任せにした後、学校でも全部、先生任せみたいな方がいる。モンスターになる。子どもには甘い。本来、親がやるべきことを外注化して、いろんな手助けをしてくれるところがいいところみたいなり、やってくれてないじゃないかと文句ばかり言うような話を聞く。何でもかんでも。やり過ぎではないか。
・親もいつまでも生きていない。囲い込んだところだけで人生を送るのはバカな話。「障がい」という言葉がなくなればいい。年を取れば皆、障がい者である。
・異質なものへの排除。普通の人へは優しくするが、普通という概念からちょっと外れた人に、なんやあの人という風潮は高まってきているのではないか。
・発達障がいという言葉が今バブルのように流行っているけれども、昔はちょっと変わったこというくらいの子に「障がい」というレッテルをはっていっているように思う。
・10人に1人が発達障がいと言われている。10人に1人が果たして「障がい」かなと。発達障がいと言われたことによって理解が進んだということはあるが、多すぎる。
・世の中が「非寛容」になってきている。SDGsとか、多様性とか言いながらも「非寛容」。
・まずは受け入れること。障がい児家族は周囲との交流が難しいため、周囲から近づいてほしい。1,000人のうち、ひとケタにはいろんな形での障害が生まれるのは当たり前のことだし、それは、たまたま自分が入らなかっただけかもしれない。自然界には1%弱、きちんと育たないものが生まれる。人間も自然界のもの。みんなが受け入れることのできる社会になればと思う。
・私たちは健常であるということを当たり前のように思っているが、そこに入らなかったら人間ではないのかというと、そうではない。皆が受容される社会を。
・たくさんの人が集まると、様々な意見。組織の中にいると思い通りにならないことが多い。障がい児の母の年代も幅広く、感覚の差異が拡大。
・努力することが好きな人が、頑張れない人に「非寛容」になる。やったらできる。努力できない人がいるということを認められない。努力する才能のある人にはわからない?
・学校での教育で同情、思いやりの教育があるか。「自己責任」重視の風潮。困っているということはどういうことかわからない子どもが増加している。
・競争社会では、子どもたちは自分の身を守る、自分のことでせいいっぱいで「非寛容」にならざるを得ない。まずは大人が生きやすい世の中にならないといけないのではないか。
・家族や友人、地域社会(コミュニティの支え)が支援の重要な一部。特に、家族の支援は重要。
・知識と理解は支援に不可欠であり、発達障がい(知的障がい)、精神障がい、また、認知症に関して、わからないから怖れる、知らないから避ける、関わりたくないという状況になっている。より正確な知識の普及が必要。
・支援について、多角的なアプローチが必要。
・頑張る人と頑張らない人がいるのではなく、頑張れないタイプの人がいる。頑張れない人を頑張る人は認められない。
・努力ができない人がいる。これをやれと言われたらできない。天賦の才もあろうが、努力のでき方も違う。
・為せばなる、為さねばならぬ何ごとも。為さぬは人の為さぬなり。努力をすることができない人を認めていない。上から目線。

【行政が行う支援について、支援施策における所得制限について

・行政が社会的システム整備を訴えたとたんに、支援を受ける人が線引きされて特別な存在になる。それによって寛容さがなくなる?→困難を抱える人や異質なものへの排除への傾向が高まる。「非寛容」な社会を痛感。
・介入・代行は行政のセーフティーネットとして最終的には必要。層というか、レイヤーがある。行政が謳う重層的な支援、有効に機能しているのか。
・重層的支援のそれぞれの役割分担。サポートする人をサポートすることも。
・「支援」社会システムを整備しきると依存してしまって対象者をダメにするケースも。「力を与える」支援が必要ではないか。
・「支援=金銭的な給付」という図式になりがち。経済的な給付、所得制限有無の是非について。所得制限はなしがいいのか、悪いのか。仕組みを作る時に必ず議論になる。政治家は目立つ支援に走りがちで、必要なところに必要な支援がされているかの検証が必要である。
・給付型支援の際、難しいことを簡単に決めすぎている。短絡的な思考である。とはいえ、スピードも大事である。
・私立完全無償化や所得制限の撤廃は不要ではないか。教育の質の担保、将来に対する投資。気持ちよく勉強できる学校であってほしい。
・生活困窮といわれる層への給付型支援について、「なぜ使う必要が?」等支援や還元がない層の不満はあるか?表面上の不満があるが、経済循環や、治安の維持、社会保障充実などにつながるとわかっていれば不満はおさまる。
・ただでさえ、教育格差がひどいのに、これ以上、広げるのか。それよりも、力のある子どもたちを育てていくのが、将来のため、私たちのためでもある。
・寛容性がなくなっているのではないか。自分たちの払う税金と、生活が困っている人たちになぜを使うんだということへの批判。自己責任だから放っておけばいいのか。
・生活保護のハードルが下がったために、逆に抜け出そうという意識が低下しているのではないか。生活の立て直しまでが支援ではないか。仕組みが大雑把では運用も大雑把になる。真に力となる複雑な仕組みにおいては行政の人数が絶対に必要で、どうしてもアナログな活動が必要となる。生活保護の窓口担当職員の不足は大きな問題。支援決定後のフォローが皆無になってしまうのではないか。
・コロナ禍の時に、どんどん給付型事業が増えた。スピード感を重視するというなかで、きちんとたたかれずに、議論もされずに、どっと増えてきた経過がある。

 

 


◇これまでの「みか’s cafe」

 

 

 

 

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